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 小さい頃聞いた話を、ふと思い出していた。
「……ユーリさんは、生まれも育ちもロシアですよね?」
流れ出したばかりの血の色をした髪を神経質に撫で付けながら、少年がわずかに首をかしげる。
「それがどうかしたのか」
桃色の髪を揺らして、床に横たわった少女は小さく、ためらうような微笑を顔に浮かべた。
「ちょっと、小さい頃に聞いたお話、思い出しちゃったんです。
 ロシアの、人工衛星の実験で、宇宙に行った犬の話。
 回収はできないから、1週間分の酸素と水と餌だけいっしょに積んで」
人間の都合で、戻れない旅に出た小さな犬。
知っていたのだろうか、自分の命があと数日で強制的に終わらされてしまうことを。
「それが、どうかしたのか」
少年は、また先ほどと同じ言葉で返してきた。

 この人はわたしとの会話に手抜きが多い気がする。

それが悪いことだとは別に思わないけれど、と自分で自分に訂正して、少女は続けた。
「別に、どうもしません。ただ、ちょっと、その犬の名前だけが思い出せなくて」
「……」
「ユーリさんなら、知ってるかなって、思ったの」
少年が考え込むように俯いて黙り込んだので、少女も黙り込む。
室内の埃っぽいにおいにふと気づいた。
薄暗い廃屋に差し込む昼の日差しが、浮き上がる埃を妙な具合にきらめかせている。
長身の少年は、床に頬をつけて見上げると更に大きく、威圧的に見えた。
しかし彼に関して言えば、優しげに見下ろすなんてされた方が多分不気味だ。

「……クドリャフカ」
「はい?」
突然だったので、聞き逃してしまった。
不服そうな顔をして、噛んで含めるような調子で少年は繰り返す。
「犬の名前。クドリャフカ、だ」
「クドリャフカ……そう、そうでしたね」
少女は寂しそうな笑顔を一瞬だけ浮かべて、俯く。

日が傾きかけていた。
そろそろ、仲間のところに戻らなければならない。
けれど少女は動かなかった。
少年は、ほつれて不恰好になった腕の包帯を黙っていじっていた。
沈黙に気まずさは無かった。
むしろ不思議なことに、それはとても心地よいほどで。
なかなか元に戻らないどころか余計にほつれていく包帯にあからさまに苛立つ少年の姿は微笑ましく、けれど笑ったらきっと彼はものすごく不愉快だろうから、ぐっとこらえて少女は起き上がる。
「片手じゃ無理ですよ。わたしがしてあげますから」
「……」
むすっとした顔で差し出された腕の包帯を直してやりながら、少女は何故か今この瞬間まで、もうこの少年にはたぶん会えないのだということを思いもしなかったことに気づいた。
それが特に寂しいとも感じないことにも。
「お前、いい匂いがするな」
「ふふ、女の子はみんな、いい匂いがする生き物なんですよ」
「そうなのか」
「そうなんです」

包帯が巻き上がる。

「それじゃわたし、もう行きます。ユーリさんも病院に戻った方がいいんじゃないですか?」
「マチルダ」
「はい?」
少女に背中を向けたまま、少年は呟いた。少女の名前を、初めて。
「俺はきっと、羨ましかった。クドリャフカが」
その言葉の意味を誰より理解できたのは、きっと。

「わたしも、羨ましいって思います」

 だって、彼女は実験動物でもそれでもきっと、わたし達よりも愛されていたから。



―― さよなら、も、また、も何か違う気がしたので、別れの言葉は口にしなかった。


激しく捏造。ていうか思いのほか長文でスンマセン。
タカオとブルックリンが人外大立ち回りかました後の話っぽいです。
アニメ終わって半年経ってお客が少なくなった頃にマニアックなカプで投下するのカコワルイ!(笑






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